【薬局四方山話】葛根湯に凝ってみる
- toso132
- 5月8日
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更新日:7月8日
薬事政策研究所 田代健

読者の皆さんは、漢方というものについてどのような印象を持っているだろうか?もしかすると「安全」とか「優しく効く」といった印象を持っている人も多いかもしれない。店頭でも、お客さん・患者さんが「(西洋の)薬よりも自然な漢方の方が体に良いはず」と言うことはしばしばある(無意識に漢方を「薬」の範疇から除外している)。そこで、「生薬は自由に移動できない植物が自身を守るための化学兵器の集大成であり、しかも合成した医薬品と違って含まれている分子を全て把握できているわけではない以上、細心の注意を払って摂取しなければならない」と説明したりすることもあり、驚かれる。漢方という分野は、勉強すればするほど一般の人が抱くイメージと実際との間にズレを感じる人が多いように筆者には感じられる。
今回は、漢方薬の中でもおそらく最も名前の知られた葛根湯を素材として、一般向けではなく薬学生向けに少しマニアックに深掘りして漢方の考え方の一端を紹介してみたい。
1. 葛根湯という薬
葛根湯は、3世紀頃に書かれた『傷寒論』という医学書に記載された薬で、桂枝・芍薬・生姜・大棗・甘草・葛根・麻黄という生薬の組み合わせからなる。桂枝から甘草までは「桂枝湯」という薬で、これが漢方における風邪薬の出発点となる。この桂枝湯の中心は桂枝と芍薬で、この2つの生薬が体の外側と内側のバランスをとる働きをする(覚える必要はないが、後世の中医学(中国の伝統医学)ではこのバランス作用を「営衛調和」と理論化した)。
風邪の初期で悪寒などの症状が軽く、うっすらと汗ばんでいるような時には桂枝湯を使う。悪寒などの症状が強く、汗をかいていない状態で、かつ、首から肩にかけて凝りがある時には、葛根湯を使う。実際にはこのような状態の風邪は多くはなく、処方箋で応需するのも総合感冒薬の漢方版くらいの位置付けのものがほとんどだ。漢方医学は一枚岩ではなく、いくつかの流派があるのだが、その中に「古方派」というものがあり、江戸時代に生まれて現在にも続いている。この流派では先述の『傷寒論』と、これとセットで書かれた『金匱要略』という2つの医学書に記載された処方だけであらゆる疾患を治療することにこだわる。この古方派の筆頭格の吉益東洞(1702-1773)という医師がどのような症例にどのような処方を行ったかという記録が残されている(『東洞先生投剤証録』)。写本により多寡はあるようだが、 450例近くの症例が記録されている。筆者が所有する本を眺めてみると葛根湯はその中で1例しかない(図表1)。このことからも、「風邪のひき始めには葛根湯」ではないことが分かる(そもそも、社会保険制度のなかった当時、風邪をひいたくらいで気軽に漢方薬を買うことは庶民にはできなかった)。また、この図表1は耳のわきに「塊」が生じたという症例だが、首から肩にかけての「筋肉のこわばり」に葛根湯を使うことは『金匱要略』の方に記載されており、現代でも肩凝りに処方されることがある。
2. 風邪の考え方
風邪をひいた際に、脳は体温を上げるように指示を出す。これによって生じる脳の設定温度と実際の体温との差が「悪寒」として感じられる。その寒気のために震えたりすることによって体温が上昇する。つまり「発熱」する。この発熱によってウイルスの活動が低下し、逆に免疫系が活性化することで感染症が無事に解決すると、脳の設定温度は平熱に戻る。そして体温を下げるために「発汗」する。まとめると、通常の風邪の場合、悪寒→発熱→発汗の順を追って治癒する。
解熱鎮痛剤が発熱を抑えるのと対照的に、葛根湯は発熱を促すことで治癒を早めようとする。しかし平熱が低かったりして発熱に耐えられない人は、体温が十分に上昇する前に発汗してしまい、熱を逃してしまう。このような場合に葛根湯を使うと、部屋の窓を開けたまま暖房を一生懸命かけるのと同じようなことになり、体力を無駄に消耗してしまう。葛根湯の場合、効能・効果に「体力のある人」と書いてあるのは、「少し発熱しても発汗しない人」という意味だ。発汗してしまう人の場合は、まずは冒頭に紹介した桂枝湯を使って「窓を閉める」という治療を行う。これによって自然に体温が上がるのを期待するわけで、『傷寒論』には「後で熱いお粥などを食べると良い」と注記している。
余談になるが、読者の皆さんは、店頭で風邪薬を買う時に強壮剤を一緒に買ったりするだろうか?筆者は、風邪薬を求めに来たお客さんには漢方薬を出しているが、強壮剤と合わせることは基本的に勧めていない。というのも、『傷寒論』ではニンジンのような「元気が出る生薬」は慎重に配合されていたからだ(3世紀の治療に用いられた「ニンジン」は現在使用されているオタネニンジンだったのかといった問題もあるのだが、いずれにせよ『傷寒論』ではニンジンは発汗し過ぎた後などに使用する)。また、服用後に「熱いお粥を食べて薬の力を補うとともに温かくすると良い」といった指示とともに「生の冷たいものや辛味の強い食べ物は控えること」といった注意もされている(「辛いもの」が具体的に何を指すのかは諸説あるが、ニンニクやニラ、ネギの類はだいたい当てはまると考えてよさそうだ)。現代風に解釈すれば、強壮剤にはエネルギーを引き出す作用はある(ニンニクに含まれるビタミンB1 、B6 など)が、強壮剤を効かせるために余計な体力を消耗してしまうというデメリットも考慮すべきだということになる。むしろお粥やうどん、つまり直接エネルギー源となる炭水化物をとって温かくして休む方が理にかなっているということだろう。(とはいえ昭和の時代には、「風邪をひきかけた」といえば家庭で湯呑み1杯のお湯にみそとニンニクとショウガを溶いたような独自のドリンクを作って、フーフーしながら飲んだりした。筆者自身は冷えた日に玉子酒を作ったりすることもある。同じような発想で、正式な治療の前の早い段階で強壮剤を飲んで早く寝るという方法は1日くらい試してみてもよいかもしれない。)
3. 肩凝り
「肩凝り」という症状が日本人にしか認識されないことはご存じだろうか?文献的な起源は江戸時代にあるようで、日本人が「凝る」という現象に注目するようになったのは、日中の健康観の違いが反映されていると筆者は考える。
中国医学の土台には陰陽五行説という思想がある。詳細は省くが、この思想は「国内の産業のバランスをとって国家を上手に統治する」という政治の理想を個人にも当てはめるという考え方がベースとなっている。そしてこの医学は不老長寿を目指す道教とも互いに影響し合って発展したわけだが、それを日本人が学んだ際、おそらく道教と関わっていて神道・仏教の考え方と一致しない部分は切り捨て、「このような症状にはこの処方」という技術論だけを取り入れた。特に先述の古方派が中国医学の理論を否定し「一気留滞説」や「万病一毒説」などを主張し始めたころから、「体に何かが溜まる」という状態を意識するようになり、日本人は「流れをよくすること」を健康観の中心に据えるようになった。現在でも、私たちの健康には「(血行やリンパの)流れをよくする」「凝りをほぐす」といった価値観がしっかり根付いている。薬局の店頭で接するお客さん・患者さんが理想と考える「健康」が、検査値が正常であることなのか、五臓六腑のバランスが調和していることなのか、澱みがなくきれいに流れていることなのか、といったことに少し興味を持ち、実際に使用する薬がどのような作用を持っているのかということとのギャップを埋めてあげられると、コミュニケーションが少しグレードアップするかもしれない。
4. 最後に
「漢方には西洋医学的なエビデンスの裏付けがないから意味がない」と考える薬剤師も多い。また、漢方メーカーも戦略的に西洋医学的なエビデンスを探索している。
二重盲検試験によって効果を判定するという考え方は、例えばファミリーレストランなどで「どの店舗で誰が調理しても一定数の顧客がある程度満足するトンカツの調理方法を探る」という考え方に近い。その基準をクリアできなかった調理方法は「おいしくない」と評価するのだ。この発想の起源は工場の生産管理におけるフォード主義にあり、経営管理から個人の資質という要素を除去することが目的だ。これに対して漢方の考え方は「効くまで処方をカスタマイズしていく」という考え方であり、トンカツ屋の主人が細かく揚げ加減を微調整していくような調理方法に近い。その結果として「トンカツはうまいか、まずいか」という評価ではなく「うまいトンカツ屋」と「まずいトンカツ屋」という評価が残る。前者のような「根拠に基づいたトンカツ調理」では、一定数存在するはずの「私はおいしいと思わない」という客にどう応えればよいのかが分からない。漢方の場合、目の前の1人の患者について、汗をかいても治らなかった場合、あるいは他の症状が出てきてしまった場合、さらには発熱が脳の設定温度を上回ってしまった場合に次の手をどう打つか?ということを考える。もちろんこれが万能というわけではなく、感染症に限っても抗生物質の登場以前に漢方で治療できなかった患者が大勢いたことは忘れてはならないのだが、このような思考法は、薬剤師が薬を販売する際にどう頭を使うかという訓練になるのではないだろうか。






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