【薬局四方山話】薬剤師のセンス
- toso132
- 2 日前
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地球堂薬局 田代健
1. 国家試験に合格するだけで良いのか?
少し昔のことだが、知り合いの医師が焼肉屋でこんなことを言っていた。「国試に受かれば同じ医者で、点数は関係ない。自分は最低限の努力でギリギリ合格したから、効率的だった」皆さんはどう思われるだろうか?
この医師の場合に限れば、最終的な目標は「実家の医院を継ぐこと」で、研修医から大学教授までの生存競争を勝ち残る必要もなく、臨床経験を積み重ねていけば成績とは関係なく自分の地位を確保することができる。さらに、医学教育を受ける大学とそれを実践する職場が連続しているので、国家試験というものはなおさら通過点に過ぎない。このような文脈の上では、「勉強の量は最小限で良い」はかなり正しいと思う。しかし、これが医師全般にも当てはまるかといえばそうではないだろうし(注1)、薬剤師の場合には、一つの職場で蓄積されてきた実践知を受け継ぐという文化もない。国家試験に合格するということは、毎年1万数千人いる「国試受験者」のうち1万人弱が、30万人規模の「薬剤師の市場」への入場券を手に入れるということに他ならない。入場券は、テーマパークなどと同様、入場した瞬間に意味がなくなる。問題はそこから先をどう楽しむかで、事前の準備によって1日が大きく変わるかもしれないし、その準備が楽しかったりもするわけだ。だからこそ、薬局に就職した後で危機感をもって「認定薬剤師の資格を取る」というのは一つの選択肢として理解できる。
しかし研修で知識を得たり何かを体験したりすることはできても、作法やセンスを磨くことはできない。もしかすると学生の皆さんにはまだピンとこないかもしれないが、薬剤師が患者とやりとりする情報には、
A.正解が明確に文書化されていて、誰が答えても同じ内容になるはずの情報
B.正解が存在せず、発信者と受け手との間で内容が不確定な情報
の2つがあり、一連のコミュニケーションの中で絡み合っている(例えば、患者さんが「大丈夫です」と言っているが、大丈夫ではなさそうに見える場合、薬剤師がその言葉をAとして受け取るかBとして受け取るかという違いは大きな影響を及ぼす)。Aについて薬剤師が持っている情報は、医薬品の添付文書やインタビューフォームに書いてあるようなものが中心になるが、患者もそれなりに入手することが可能になっており、例えばSNSや生成AIで得た情報をベースに相談を受けるというケースは実際に増えている。それと同時に、不正確だが断定的な情報が急増していることにより、
C. 薬剤師にとっての正解と患者にとっての正解とが異なる信念に基づいている情報
が紛れ込むようになってきている。患者との会話でこのような情報が顕在化した時に大切なのは、知識そのものよりもむしろ科学者としての作法だ。これは神社の参拝でも科学でも同じだろうが、「作法を知っている人同士」というのは、例えば聞いたことのない情報があったとしても、話がはやい。「作法を知らない人同士」は混乱するだけでおかしなことになりがちだ。「作法を知っている人と知らない人」とでは、知っている人がその場をコントロールしやすくなる。その時に、ただ作法を振りかざすだけでは衝突してしまうので、それを相手に合わせて気持ちよく使う「センス」が大切なのだ。
2. センスとは何か?
このセンスとは一体なんなのか? ラテン語までさかのぼると、「感じる能力、感覚」というような意味があり、「ものの良し悪しを感じる能力」や「五感そのもの」さらには「意味」といった広がりを持つ言葉になったようだ。日本語では「あの人はセンスがいい」と言えばなんとなくその意味は伝わるが、センスとはなんなのか、センスを良くするためにはどうするのか?といったことはなかなか言語化できない。ここでは、具体的に「白衣を個性的に着こなす」とか 「SNS映えする」とかいう意味での「センス」から考えると分かりやすいかもしれない。あるいは、「体育会系のサークルに所属して全国大会で賞を取った」というようなことで得られる「何か」も同じ性質のものなのかもしれない。それらと同じ平面の上に、患者と話す時の人間としてのセンスや、処方箋を見た時の薬剤師としてのセンス、医薬品の構造式を見た時の化学的なセンスといったものがある。これらのセンスは一朝一夕には身につけることができない。それは「意味を論理的に理解する」ということではなく、五感や行動を通じて時間をかけて自分のものにするしかない。
ピエール・ブルデューというフランスの社会学者がいて、労働者階級の生まれからエリート層の中に入って、エリート層生まれの周囲とどう闘うかというようなことを実践した人物なのだが、そのキーワードに「文化資本」というものがある。子供の音楽や絵画の好みといった感性(センス)は親の社会的な地位によって変わってくるということを実証的に示したのだが、このような感性は大人になってから変えることが難しく、しかもそれが親から子へと再生産されるということで、それを金のような目にみえる資本とは別の「文化資本」と名付けた。
大学というのは、比較的均質な集団の中で、さまざまな設備もあれば切磋琢磨する学生もいて専門家もいるという状態でセンスを磨く、あるいは身も蓋もない言い方をすれば「文化資本」を蓄積することができる、最後のステージだ。社会に出て体力も落ち、他の日常のいろいろな用事に時間を奪われた状態で自分の意志だけはなかなか身につけることができない。
3. 大学でセンスを身につけよう
筆者はこの15年間ほど、比較的多くの薬剤師と作業をしたり話をしたりする機会があったのだが、痛切に感じたのは、「薬剤師は街の科学者である」と自称する割に、大半の薬剤師は科学の作法が全く身についておらず、それを身につけている少数の薬剤師はその作法を通じて患者や仲間の薬剤師とコミュニケーションをとるセンスを欠いていることが多いということだった。多くの薬剤師は患者を「薬歴の記載項目」というフィルターを通じてしか見ない。薬歴の記載項目とは、要するに「調剤報酬の点数の算定要件」だ。だから、SNSやメディアで調剤報酬について痛いことを指摘されるたびに大声を出すような、リアクション系の薬剤師が圧倒的に多く、調剤報酬制度と関係のない自分自身の個性を明確に持ったセンス系の薬剤師は少ない。
そこで、学校でもすでに耳にタコができるほど聞かされているとは思うが、薬学生の皆さんには、有機化学でも生理学でもいいので、自分の興味を持てそうな学科、あるいはこれから20年くらいの間に重要になりそうな学科、あるいは周りに勉強がはかどりそうな環境がそろっている学科、などを自分なりに調べて、1つ選んでとことん深く勉強して周りと議論することをおすすめしたい(最初はつまらないように見えても、勉強していくうちにどんどん面白さが分かるようになってくる、ということもある。そもそも「本当につまらない学問」など1つたりとも存在するわけがないのだ)。それによって体得できたセンス(文化資本)は、社会に出てからきっと役に立つし、それを個性として発揮できる薬剤師になってもらいたい。その個性を発揮できる環境を用意して待っていることが、薬局側の責任だろう。
4. 最後に
本稿をまとめるにあたって、最初に書き始めたのは「薬剤師としての実務に化学の知識は必要か?」という話だった。筆者の母校では薬学部の研究室はなんとなく有機系・生物系・物理系と大別されており、筆者は生物系にしか関心がなく、有機系の勉強をほとんどしなかった。そのために、自分自身が薬局薬剤師として働くうえでふだん「自分が学生だった頃にこういう勉強をしたらよかっただろうな」と感じているようなことをまとめようと試みた。その途中でふと「イミダゾール環ってなんだったっけ?」と思い出し、薬学部の時に買った有機化学の本を引っ張り出してみた。イミダゾール環のところを探してみると、そこに「ここは後でまた勉強すること」という付箋紙が貼ってあった。もし、薬学生時代の自分にメッセージを送ることができるとしたら、「そこは30年後に悩む箇所だから、ちゃんと勉強しておけよ」と言いたい。

注1 この医師とまったく逆の事例を紹介しよう。筆者が薬学部の時に居候させてもらっていた医学部の研究室の教授室には、簡素な事務用机の上に数冊だけ本が並んでいて、その1冊は学生時代に使っていたらしくすっかり色褪せた「線形代数学」の教科書だった。この教授は、アルツハイマー病患者の脳に蓄積する神経原線維変化という病理産物がタウというタンパク質から構成されていることを発見した業績を持ち、神経病理学という分野の中では世界的にもトップランナーだった。線形代数学は、そんな専門性とはまったく関係がない分野だが、その1冊から「商売道具としての学問」ではない「すべての自然科学に一貫する学問」への変わらない信念というものを感じた。






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