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世界経済と日本経済の「死角」:製薬業界が問われる未来戦略

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日本製薬工業協会(製薬協)主催の「第24回製薬協フォーラム」では、BNPパリバ証券のチーフエコノミストである河野龍太郎氏が登壇。「世界経済の死角、日本経済の死角」と題した講演で、日本経済が長年抱える構造的な課題と、グローバル化がもたらす社会の分断について鋭い分析を展開した。

製薬協会長の宮柱明日香氏は、河野氏を「日本を代表するトップエコノミスト」と称え、講演が製薬産業の未来を考える貴重な機会であると強調。政府が創薬・先端医療を成長戦略の中核に位置づけた一方で、業界が直面する研究開発力の低下、ドラッグラグ、薬価制度の予見性欠如といった課題に触れ、「今、日本が革新的な医薬品を適切に評価する魅力的な市場になれるのかが問われている」と危機感を示した。


第一の死角:グローバル経済の「内向き化」と覇権の動揺

河野氏は、グローバル化がもたらす社会の分断と、それに基づく世界経済の保護主義的な潮流を第一の「死角」と捉えている。


保護主義の常態化と社会の二極構造

アメリカ・トランプ政権下で顕在化した保護主義(相互関税など)は、政権が変わっても継続する可能性が高い。この根底にあるのは、1990年代後半のデジタル革命とグローバリゼーションによって生じた社会の二極化である。すなわち、高度な教育を受け国境を越えて所得を稼ぐ「エニウェア族」が存在する一方で、土地に縛られ所得が停滞する大多数の「サムウエア族」に社会が分断されたことへの反発が、ポピュリズムと内向き志向を強めているのである。

また、アメリカが関税を課す根拠を「米国が運営する国際システムに各国がフリーライドしている」という論理に求めることは、歴史的に帝国が末期的に見せるパターンであり、アメリカの覇権や基軸通貨ドルが揺らぐ可能性を孕んでいると分析した。


第二の死角:賃金停滞と「収奪的」社会の構造

日本経済は現在、完全雇用に近い特殊な環境にあるにもかかわらず、深いマイナスの実質金利(-2.5%)が歴史的な円安を招き、家計の実質購買力を抑制している。しかし、より根深い問題は、企業が生み出した富が家計に還元されない構造にあると河野氏は指摘する。


生産性上昇と実質賃金の乖離

日本経済は過去四半世紀で、時間当たり生産性がドイツやフランスと同程度の約3割上昇しているにもかかわらず、時間当たり実質賃金はほぼ横ばいで推移しており、近年はむしろ下落している。このことは、労働者が生み出した超過収益(レント)が従業員に分配されず、企業部門、特に株主に集中する「レント・シェアリングの欠如」という現象を明確に示している。


長期雇用制の代償と内部留保の異常蓄積

賃金停滞の背景には、1990年代の金融危機後、日本の大企業が長期雇用制を維持するために選択した戦略がある。企業は、人件費を抑制することで利益を捻出し、自己資本たる内部留保を積み上げ続け、その額は1998年の約120兆円から2024年には640兆円へと異常な水準に達している。

この人件費抑制策の主な手段は、2022年まで続いた正社員のベースアップ凍結であり、これと並行して、人件費の一部を変動費化するための非正規雇用の拡大が進められた。その結果、実質賃金が上がらず、消費も伸びないために国内企業の売り上げが増えず、国内投資が抑制され、海外投資ばかりが進むという「合成の誤謬」の状態が続いているのである。


「収奪的」な社会構造への懸念

雇用の約4割を占める非正規雇用の賃金が長期間低く抑え込まれてきた実態は、良かれと思った長期雇用制の維持が、結果として非正規雇用という「安価な労働力」に相当頼る社会構造を生み出したことを意味する。河野氏は、この構造が日本社会を「気がつかないうちに収奪的な方向に向かわせている」という強い懸念を表明しており、この格差の拡大と生活基盤の脆弱化こそが近年の政治の流動化の一因となっていると分析している。


求められる根本的改革:ガバナンスとイノベーションの再定義

日本がこの構造的な停滞から脱するためには、根本的な制度の見直しが必要であると提言された。


コーポレート・ガバナンスの再構築

日本政府が推進してきた株主利益最大化を企業経営者の役割とするアメリカ流のガバナンスは、日本の長期雇用や人材育成の文化と齟齬をきたし、長期的な創薬研究開発や人材育成に必要な投資を抑制し、短期的なコストカットに走らせる原因となった。したがって、企業経営者の役割は、株主だけでなく、従業員、地域社会といった全てのステークホルダーの利益増進に切り替えるべきであり、日本の企業文化に元々存在した包摂的な側面を再評価する必要がある。


「包摂的なイノベーション」を目指す社会制度の構築

イノベーションは、その恩恵が一部に集中する「収奪的」な性質を持つものであり、社会がこれを「飼い慣らす」必要性を指摘する。日本はこれまでイノベーションを推進する側のサポートに偏り、AIやグローバル化によってダメージを受ける側(低・中所得者層)へのサポートを怠ってきたことが最大の問題である。そのため、イノベーションを進める一方で、AIや外国人労働者との競争に直面する層をサポートする社会制度、具体的には給付付き税額控除や積極的労働市場政策などを構築することが不可欠である。「包摂的な社会制度」こそが、社会全体に恩恵をもたらす「包摂的なイノベーション」を生み出す土壌となる。


製薬産業への示唆

河野氏の分析は、創薬・先端医療を成長戦略の中核と位置づける製薬業界に対し、次のような戦略的な問いを投げかけている。製薬企業が生み出す高い付加価値は、研究開発者や従業員のベースアップに適切に還元され、更なるイノベーションを促す人的投資につながっているか。また、株主利益最大化に傾倒しすぎるガバナンスは、長期・高リスクを伴う創薬研究や人材育成への十分な投資を妨げていないか。そして、製薬イノベーションの果実を、国民の健康(ドラッグラグ解消、安定供給)だけでなく、構造改革を通じた社会全体への経済的貢献にもつなげる「包摂的」な役割を果たすことができるか。

これらの「死角」を見つめ直し、中長期的視点に立った官民連携を通じて、日本の未来を切り開くことが今、製薬産業に求められている課題である。

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