【薬局四方山話】投票に行くべきか?
- toso132
- 7月14日
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薬事政策研究所 田代健

1. 選挙の面倒臭さ
7月3日に参議院選挙が公示され、20日に投開票が行われる予定だ。
自分の一票で結果が変わるとは思えないという無力感の一方で、当選した候補は任期中の国会での全ての判断について有権者から白紙委任されたことになり全能と化すという選挙の仕組みは不条理だが、筆者自身は今のところ投票には必ず行くようにしている。その理由は主に2つある。
理由1:万が一、選挙の結果とんでもない政治が実現してしまった場合に、後になってから「あの時自分は何をしていたか」について後悔したくない(自分の経験上、後悔するはめになるのは「ちゃんと考えなかったから」という原因が多いので)。
理由2: 「一票を入れたところで何も変わらないから棄権してもいい」という判断の倫理的な妥当性をテストする古典的な方法が1つある。もしも全ての有権者が同じように判断をして棄権したら、社会は崩壊するだろう。したがって、この判断は妥当ではない。(このように「自分の判断や行為は普遍化できるかどうか?」を吟味して倫理的な妥当性をテストする方法を「定言命法」という。)
最近の欧米の選挙で起きている変化が日本でも起こると仮定すると、これからの10年間の選挙については、理由1が特に重要になってくるような予感がしている。
2. 今、欧米の選挙で起こっていること
読者の皆さんが生まれた頃、小泉政権は新自由主義的な立場から各方面で規制緩和と民営化を進めた。この方向性は今日まで一貫している、というよりもこれによって拡大した格差やグローバル化といった副作用への次の一手を与野党問わず誰も見つけられていない。これは日本に特有の現象ではなく、数十年前から、先進国の経済政策は新自由主義に収斂し始め、「政策による政権の選択」という仕組みが機能しなくなってきた。
新自由主義の下では、大半の有権者は「中産階級の没落」という不利益を被るのだが、政治家はその有権者たちに「あなたたちは被害者だ」と呼びかけ、少数派や特権階級(エスタブリッシュメント)といった「他者」を感情的に指弾すれば(これを「モラル・パニック」と呼ぶ)支持を集められるという手法がすでに常套手段となっている。その結果、従来の「リベラル-保守」「左-右」といった対立軸は意味を失い、例えば「世界のどこかで虐殺が行われていること」と「来月の米の値段」のどちらが大事かというような認識にもとづいて「誰を憎悪するか」が対立軸となってきているように見える。
3. 選挙以外の政治参加
ところで、政治に参加する方法は選挙だけではない。薬剤師としてということであれば、自治体の医療・福祉や公衆衛生に関する委員会に薬剤師会を通じて参加を求められることがあり、積極的に参加する扉は開かれている。特に、災害時の医療提供という点で薬剤師と行政との連携は年々強くなっている。もちろん、薬剤師という資格にかかわらず個人として行政に参加することも可能で、例えば筆者は厚生労働省が「厚生労働行政モニター」を募集しているのをたまたま見かけて応募し、1年間の期間中に何回か、課題となる政策について一市民として意見を寄せたことがある。薬剤師会もその1つだが、さまざまな組織や団体が政策を立案する官僚との直接の連携に力を入れており、場合によっては内閣が設置する諮問会議などに有識者としてのポジションを得ることで、選挙というプロセスを経ずに政治に参加している。
4. 最後に
皆さんは実務実習で薬局に行くと、「保険調剤を主な収入源としている以上は政治とは縁を切ることができない」などといわれるかもしれないが、聞き流してよい。まず、保険調剤制度を設計するために必要なのは明確なエビデンスであって、選挙での集票力によって患者が負担する薬代をコントロールしようという発想は不健全だ(患者から薬代について質問されて「選挙で頑張ったからです」と胸を張って答えられるだろうか)。次に、先述のように政治への参加の仕方は選挙以外にもいろいろある。3つめに、だからこそ保険調剤以外の収入を自分自身で開拓するための自由が大事なのだ。
三連休の中日という悪趣味なスケジュールにはなっているが、一票を大事にしてもらいたい。
参考図書
・若松邦弘『わかりあえないイギリス 反エリートの現代政治』(岩波新書)
・渡邊啓貴『ルペンと極右ポピュリズムの時代:〈ヤヌス〉の二つの顔』(白水社)
・トマ・ピケティ, マイケル・サンデル, 岡本麻左子(訳)『平等について、いま話したいこと』(早川書房)
・デヴィッド・ハーヴェイ, 渡辺治 (監訳), 森田成也 (訳), 木下ちがや (訳), 大屋定晴 (訳), 中村好孝 (訳)『新自由主義—その歴史的展開と現在』(作品社)






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